HOME > 日本の誇り> 日本の自慢歴史・伝統・文化>正倉院 他

正倉院

正倉院(しょうそういん)は世界最古の博物館。奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造(あぜくらづくり)倉庫で、聖 武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設。「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界 遺産に登録されている。

 正倉院の宝物には日本製品、中国(唐)や西域、遠くは ペルシャなどからの輸入品を含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほ か、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書(もんじょ)、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一 大宝庫である。シルクロードの東の終点ともいわれる。

 聖武天皇が崩御されたのが天平勝宝八年(七五六)であったが、皇后の嘆きは大きく、 その嘆きは美しい哀悼文となり、その文の最後には、「生前に帝がお使いになったものを眼にすると、その叫のことを思い出して、泣き崩れてしまいます。それ らの御遺愛品を、謹んで重合那仏に献じ奉ります。どうかその善因によって極楽往生を遂げさせてあげてください」と書かれた。 その遺愛品が、正倉院の品々 になったのである。唐舎那仏は東大寺にあったから、それに献 乃じたというのは国家に献じたことでもある。正倉院がその博物館になったのである。

  こうした時代からの伝世資料は、世界でもほとんどその例がないために、正倉院の宝物は、世界中の人々から驚異の眼差しで称賛され、人類の宝とまで呼ばれ て、広くその存在が知られているのである。このことは誇張して述べられているわけでなく、専門家も異口同音に述べていることである。それでこそ博物館に値 する品々である。 

奈良の大仏

天平勝宝四年(752年)、4月9日、世界最大のブロンズの大仏が完成し、「大仏開眼」式が行われた。その大きさは、高さ16メートル、重量は 250トンで、表面積は五二七平方メートル、肉厚が5.5センチメートルと計算され、これに蓮座の220トンと、表面積511平方メートルを加えると、そ の巨大さがよくわかる。 大仏建立の中心になった仏師は国中達公麻呂で、世界三大巨匠の一人といわれている。

 この「大仏開眼」式には、聖 武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が主席している、開眼の導師、インド人僧侶の菩提僧正が大仏に目を入れるとき、その筆に紐につながって、天皇らの手に あったという。参列者は一万数千人で溢れていた。アジア全土のの音楽が演奏され、盛大な式典だった。

 この像の製造方法は、まず塑像(粘 土)で原型(雄型と呼ばれる)を造る。約1年2カ月でそれを完成すると、まず原型に雲母の粉などをふり、さらに粘土砂をかけて、厚さ40〜50センチメー トルの外型を造る。その中に鉄筋や蔦などを塗り込めたという。数日間乾燥させた後、外型を外し、それを摂氏800〜900度で熱する。原型を5、6センチ メートルの厚さだけ削り取る。これを中型というが、その中型の上に、外型を被せるのである。次に周囲に土手を築き、多くの溶解炉を一定の間隔で配置する。 その数は百十数基用意されたという。そして溶解したブロンズを外型と中型の間に流し込むのである。その作業を二年かけて行った。

 

伊勢神宮の式年遷宮

 

伊勢神宮の式年遷宮という、しきたりが、1300年以上にわたって継続されてきた。

 神宮には数多くの祭祀がある。そのなかでも「日毎朝夕入御供祭」は、神宮で最も古い祭祀といわれているが、これは1年中、1日の断絶もなく、朝と夕の二度、神様にお食事を差し上げる祭りである。

  その祭祀を1日の断絶もなく続けるために、新しい社殿を作り完成するまで、隣の古い社殿で祭祀が行われていたのであろう。そして、形あるものは必ず滅び る、という常識を逆手にとり、滅びる前にこれを模写し、原物と寸分も違わずに再建する、この繰り返しによって常に原点に復帰し、元の命を永遠に伝える、と いう式年遷宮の手法は、実は日本の文化の本質でもあったといえる。

 式年ごとに新しく建て替えられる社殿は、元の社殿そのものではありませ ん。つまり複製です。しかしそれは、様式からも機能的にもオリジナルの再現といえます。後から作られたものであっても、これをオリジナルと考える文化的土 壌は、型の継承を基本とする日本文化の顕著な特徴です。文学、芸術、武道、芸能すべて型の継承が基本とされています。学ぶとは、もともと「まねること」、 稽古とは「古きを稽える(かんがえる)」ということでした。コピーとオリジナルを区別せず、コピーに新たな息吹を吹き込んでオリジナル化する文化の型は、 和歌の本歌取りの手法や、本宮と末社との関係、また神器の形代(かたしろ)など日本文化のさまざまな分野で見られる特性です。遷宮によって新しく生まれ変 わるのは神殿ばかりではありません。正殿の内外を奉飾する御料から、神宝と呼ばれる調度品にいたるまで、千数百点を超える品々があるといわれていますが、 それらの伝統技術を守り伝えることも、遷宮の持つ重要な意義の一つです。

 こうして、社殿も祭祀も、太古のかたちを、すべて生きたかたちで 保ちつつ、「月毎朝夕入御供祭」は、一日の断絶もなく、j沓誉に続くのである。その制度が、はるか千三百年の時を超え、21世紀の今日まで、生きているこ とは、さらなる驚きである。世界史上、このような信仰に基づく、このようなシステムが、このように長く続いている例は他にない。

▲ページトップに戻る

 

国旗 「日の丸」

 

 

日本の最高神は古来より天照大神です。また太陽神でもある。太陽のシンボルでもある赤い丸は、天照大神の現れである。「日の丸」は、古来から今に至るまで脈々と受け継がれてきた、わが民族の歴史と信仰のシンボルといってよい。

  日の丸の歴史は、武士の平安時代になると、軍扇のデザインに、しばしば「日の丸」が用いられるようになる。那須与一が射落とした軍扇の話は、有名な話であ る。文治元年(1185年)、「屋島の合戦」の祈、平家の水軍から一般の小船が漕ぎ出し、岸辺に布陣していた源氏軍の、ほぼ十数メートルの沖合いに停泊す る。船上の美しい少女が、船の柱の上に立てられた「日の丸」の扇を指して、手ぶりで「射てみよ」という。若武者であった那須与一が、源氏の代表として、神 に祈りつつ矢を放つ……。矢は、見事に扇のカナメを射落とす。扇はひらひらと海に落ち、両軍の武士たちは、与一に喝采を惜しまなかったという。

 南北朝時代になると、今日の「日の丸」そのものともいうべき、白地に赤い丸の旗が、文献上、はっきりと確認できるようになる。後醍醐天皇が、味方の武将に賜った旗がそれである。

 戦国時代になると、武田信玄、上杉謙信、伊達改宗などの戦国武将たちが、「日の丸」を愛用している。敵も味方も「日の丸」を掲げて戦っていたのである。

 その後、安土桃山時代になると、外国貿易のための朱印船が、台湾からマレー半島に及ぶアジア各地を、「日の丸」の旗を翻しながら活躍した。ここに「船印」としての「日の丸」の歴史も始まったと見てよいが、その矢先、。鎖国〃となり、わが国は長い太平の眠りに落ちる。

 嘉永六年(1853年)6月の、ペリー来航の日を迎える。薩摩藩主の島津、斉彬は「異国船」と間違えないよう、
「日の丸」を日本国の「総船印」とすることを提案した。安政六年(1859年)になると、幕府は「日の丸」を、「御国総印」ともしているので、ここにおいて「日の丸」は、実質的に日本の国旗となったといってよい。

 その11年後の明治三年(1870年)、「郵船商船規則」という法律によって、「日の丸」は、近代日本においても日本の「国旗」であることが確認された。

  それから129年後の平成十一年(1999年)、いわゆる国旗国歌法が成立しているが、これは、現代の悪質な反日教師たちが「日の丸が国旗であると、明確 に定めた法律などない」と理不尽な主張をし、学校現場を極度に混乱させたため、いわば再確認の必要に迫られて定められたものである。

 「白地に赤く、日の丸染めて、ああ美しい、日本の旗は……」という歌詞のとおり、青空に翻るわが国の国旗は、理屈なしに美しい。

桂離宮

京都の中心街から離れた、桂川の西に面した場所に桂離宮はあります。総面積は付属地も含めると約7万m²になり、東京ドームのおよそ1.5倍の広さです。
  江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、純粋な日本を感じさせる庭園風景と落ち着いた佇まいは、日本の伝統文化の深さを感じさせる。回遊式の 庭園は日本庭園の傑作とされている。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。庭園には茶屋が配されている。もとは桂宮家(八条 宮家)の別荘であったが、現在は宮内庁京都事務所により管理されている。

 桂離宮は、大小5つの中島をそれぞれ特徴ある橋で渡し、回遊式の庭園となっています。自然の美がこの庭園には凝縮されていて、四季を通して違った顔を見せる魅力があります。

  また庭園の木々は、毎日園芸職人の手によって丹精に育まれていて、いつ見ても感嘆のため息がでてしまう出来なのです。園芸に興味のある方にとっては、死ぬ 前に一度は見ておきたい場所でして、遠方は北海道から沖縄まで、ここ桂離宮に足を運ぶのです。

足立美術館

島根県安来市にある足立美術館は米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」の日本庭園ランキングにて、かの有名な桂離宮(京都府)を抑え、6年連続第1位の座にいる。

 名実ともに偉大な称号を得たこの美術館、創設者は地元安来出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう)氏で、繊維卸業などで財を成し、自らが集めた近代日本画の名品などをもとに昭和45年、71歳で故郷・安来に設立されました。
 庭造りに残りの生涯を捧げたというその思いは、やがて庭園に命を吹き込み、誰もがその価値を認めるほど偉大な場所に。その評価は安来市を越え、日本を越え、世界へ。そして今も多くの来館者に「日本の美」を伝えて続けているのです。

  広さ約50,000坪・・・。「枯山水庭」、「苔庭」、「池庭」、「白砂青松庭」と足を進めるたびに広がる閑雅な風情は、館内の日本画作品とあいまって独 自の世界観へエスコート。 特に「白砂青松庭」は横山大観の名作「白沙青松」を日本庭園で細密に表現されており、白砂と松のコントラストがとても印象的です。
 工夫といえば、床の間の壁をくりぬいて作られた「生の掛軸」も見逃せません。館内から見るこの庭園絵画は、よく見るとあたかも一枚の掛け軸のように見える仕掛けが。こちらも足立美術館の名物の一つとして人気を博しています。 http://www.adachi-museum.or.jp/

出雲大社

 出雲大社は島根県出雲市にある神社で、式内社(名神大)、出雲国一宮。近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。

  祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評された。縁結びの神様として も知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日〜17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であ るが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。
 日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、造営されたのが出雲大社 の始まりであるという。古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称した。


▲ページトップに戻る

漆 (うるし)

漆(うるし)は塗料として用いられるようになったのは縄文時代からです。漆の産地は日本、中国、東南アジアなどですが、現在の日本では漆掻き職人(漆を採取する人)もごくわずかな人数になってきています。   漆は塗料としてだけではなく、接着力が優れているため接着剤としても古くから使用されています。 また他の素材に比べても、強力な菌の制御作用をもつこと が、科学的検知からも立証されており、環境や人体に影響を与える有機溶剤と違い、伝統的な自然素材である漆の安全性が見直されてきています。

花火 HANABI

日本は世界中でどこの国よりも花火観覧に恵まれていると言っても過言ではありません。  日本の夏の風物詩といえば、何といっても花火でで しょう。「ドーン パッー」夜空に光の大輪が輝く。赤、黄、青のカラフルな色に加え、形も様々に変化していく。最近は技術の発展と共に、ハート形に光るも のまで出てきている。そして迫力のある爆発音。全身に伝わる空気の振動も、何ともいえない醍醐味がある。日本各地の花火大会の会場は、一年間で何と 5800箇所で開かれるている。  花火のしくみは丸い球状で、星という小さな球状火薬が内側に並べられています。この星は、かわり玉のようにちがった色の出る火薬が層になっています。その星が中央の割り火薬の爆発力で四方八方に飛び散り美しい花火になります。  これに対し、外国の花火は色の変わらない円筒型で変化に乏しく、立体感に欠けます。こんな美しい日本の花火は、世界に認められ、アメリカをはじめ80余国に輸出されています。  日本に花火が伝わったのは、1543年の種子島に鉄砲が伝来され、火薬が輸入された時に遡る。その後、日本独自の技術改革により、夏に欠かせない風物詩として発展してきている。  日本最大級は四尺玉打上げ花火で、ギネスブック公認の世界一の花火になっている。一玉の大きさは直径120cm、重さ420kg。打上げられた花火は800mの高さまで上がり、直径800mの光の花を咲かせる。

着物 KIMONO

 着物は、長い歴史の中で繊細な技術を磨き、受け継がれてきたものです。近年日本では、洋服が一般的ですが、今日もなお、 着物が愛され続けるのは「美しい」という理由だけではありません。  着物は、日本独特の色使いなど、 伝統美ならではの雅やかさは他の衣装にはない魅力を 持っています。日本の生活文化に溶けこみやすく、日本人の体型や顔立ちによく映り、 また四季のある日本の気候風土にも適しています。

刀 (かたな)

刀は古墳時代から作られていた、古来から武器としての役割と同時に美しい姿が象徴的な意味を持ち、美術品としても評価の高い物が多い。古くから続く血統で は権威の証として尊ばれていた。また武家政権を背景に「武士の魂」として精神文化の支柱として機能した。世界一強く切断能力が高いと刀といわれている。

  その特徴は、"折り返し鍛錬法"で鍛え上げられた鋼を素材とする点と、刀身となかご(茎、中心)が一体となった構造である。茎には刀身を目釘で柄に固定す る目的の孔(目釘孔)が設けられている(稀に奉納用の刀などで目釘孔がないものもある)。また、日本刀は諸外国の刀剣類と異なり、外装品(拵え)とは別に 刀身自体が美術的価値を発揮していることを以って最大の特徴である、と言える。

伊勢神宮

創建(約2000年前の第11代垂仁天皇)以来、千数百年にわたって脈々と同じ祈りがささげられ、一時も消えることのない法の火が灯されおり、あまりの歴史の深さに神話にまでさかのぼってしまう。日本の伝統・文化の象徴でもある。
 昭和四十二年の秋、来日された世界的な文明史家アーノルド・トインビー(イギリス)は「この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底をなす統一性を感得する」 1967年11月29日)という言葉を残している。  (詳細は議員コラム『松浦芳子』欄より)

祇園祭

   
平安時代前期の869(貞観11)年、京で疫病が流行した際、広大な庭園だった神泉苑(中京区)に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。
 応仁の乱(1467−77年)で祭りは途絶えたが、1500(明応9)年に町衆の手で再興された。

▲ページトップに戻る

東大寺

東大寺(とうだいじ)は世界最大の木造建築、奈良県奈良市にある華厳宗大本山の仏教寺院である。現住職は219代目・上野道善。
 奈良時代(8世 紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽 藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時 代、18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている
 東大寺は1998年に古都奈良の文化財として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

岸和田だんじり祭

   
岸和田だんじり祭は、大阪府岸和田市で毎年秋に行われる祭り。曳き手が走り、速度に乗っただんじりを方向転換させる「やりまわし」を見所として、多くの観 光客を集める。元々は岸和田藩の領民が岸和田藩主とともに、その年の五穀豊穣を岸和田城内三の丸稲荷神社に感謝した稲荷祭が起源。現在では各町のだんじり がそれぞれの氏神社に宮入りし、五穀豊穣・無病息災などを祈願する。全国的にも知名度が高く、日本を代表する祭りの一つである。

仁徳天皇陵

世界三大陵墓はクフ王のピラミッド、始皇帝陵、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)といわれている。
 大仙陵古墳(だいせんりょうこふん、大仙古墳、大山古墳とも)は、大阪府堺市堺区に存在する日本最大の前方後円墳。周囲の古墳と共に百舌鳥古墳群を構成している。墓域面積が世界最大であるとされる。

▲ページトップに戻る